8時の猫









一人暮らしの彼女が飼っている猫は、午後8時になるとけたたましい声で鳴きだす。

「あー、わーったよ、言われなくても帰るよ」

 そして今日もまた、俺は早々に帰り支度を始める。




 大学から程遠くない彼女のアパートで一緒に夕飯を食べるのが、ここのところの日課になっている。近くにあるスーパーで適当に材料をかき集めて、そこからあれこれ考えて食事を作るのだが、これがなかなか楽しい。基本は彼女が作ってくれるのだが、俺がキッチンに立つこともある。
 迷惑なのは百も承知なのだが、やはり一人で取る食事より、二人で食べる食事の方が美味しく感じるもので。それは彼女も同じらしく、毎回押しかけていることに「彼女は」文句を言わなかった。
 ……が、彼女の部屋の同居人――いや、この場合「人」ではないが――は、それがひどく気に入らないらしい。
 というのも、俺が彼女の家にいる日は必ずと言っていいほど、奴は8時にぎーぎーと鳴き出すのだ。「早く帰れ」と急かす様に、俺に小さな牙を向けて。
 何でも彼女曰く、俺がいない日はこんなことにならないらしく、俺が帰れば鳴き止むのだと。確かに、俺が部屋から出て行った後、この猫が部屋で騒ぐのを聴いたことがなかった。
 要はこの猫が鳴き出したら俺は帰らざるを得ないわけで、付き合って二ヶ月になるというのに、俺は彼女の家に泊まったことがない。俺の家に彼女が泊まったこともない。つまりは……、そういうわけである。

「ごめんね、うちの猫がいつも」
「ん、大丈夫」

 本当はまだ帰りたくないのだけれど、申し訳なさそうに目尻を下げる彼女を目の当たりにして、そんな言葉が口から出せるわけもない。鞄に手をかけて、仕方ないと席を立った。それでも隣で、猫は睨みを利かせて俺を威嚇し続けている。少しでも何かすれば、鋭い爪で足元を引っ掻かれそうだ。

「ほら、もう帰るんだってから」

 彼女はしゃがみこむと、猫を持ち上げて自分の腕の中に抱きかかえる。俺にはあんなに敵意むき出しだったにも関わらず、彼女が触れることに対しては一切の抵抗も見せない。少々不機嫌そうな顔をしているけれど、ここは自分の場所だと言わんばかりにふんと鼻息を鳴らした。
 ……コノヤロウ。




「じゃあ気をつけて帰ってね」
「おー」

 玄関まで見送りに出てくれた彼女と向かい合って、軽く挨拶を交わす。あまりに可愛く笑うものだから、駄々をこねる気も失くしてしまう。彼女を困らせたくてここに来ているわけではないのだ。今日も大人しく帰るとしよう。……少し残念だけど。
「鍵、ちゃんと閉めろよー」
「うん、また明日ね」

 ……あ。

「……おお、明日、な」

 何事もなかったかのように彼女に微笑み返して、俺は部屋を後にした。
 




 また明日、か。
 明日は日曜、大学の授業はないしサークルも休みだったはずだ。つまり、電車通学の身としては、何か用事がなければこちらに出てくる必要性はなく、彼女の家に行く口実も出来ない。
 今までの彼女の挨拶は「また学校でね」だった。それは「日曜は会わない」と言う意味の、暗黙の了解。
けれど、今日は違った。
 あまりにサラッと言うから、びっくりした。
 ――少しは、期待していいのかな。
 自分は彼女に「彼氏」として認められていると。
 ……なら、今日のところはあの猫も許してやるかな。
 にやける口元を手で覆い隠しながら、俺はスキップで帰途についた。







  *  *  *







 うちの猫は、午後8時になるとけたたましい声で鳴きだす。

『気に食わんな、あの男』

 そして今日もまた、奴はソファの上で愚痴を漏らす。





「いい加減やめてくれない? そうやってあの人追い出すの」

 夕食の片づけが終わり、私はテーブルを挟んでトラの前に座った。ソファの上に堂々と陣取った奴は、そんな私にお構いなしで、細長い尾を左右に振りながら大きな欠伸を一つ浮かばせる。

「ちょっと、人の話聞いてる?」
『がたがた煩いのう。そんなに大声を張り上げなくても、聞こえてるわい』

 ふう、と溜息を吐いたと思えば、灰色の瞳が流し目気味に私へ向けられた。本当に猫なのかと思うくらい、生意気な表情をしている。

『お前もいちいち、ああいう扱いをするなと言っておるじゃろう。儂をそこいらの猫と一緒にしおって』
「だって猫じゃん」
『普通の猫はこんな複雑な思考回路を持ち合わせとらん』

 ソファに長い尾を叩きつけて、たしっ、たしっ、と可愛らしい音を立てる。言っていることは一ミリも可愛くないのに、うっかりそれに和んでしまった。……いや、ヒトの言葉を喋っているわけではないのだけど。
 正確には、私がトラの言葉を、トラの意思を理解しているのだ。このアパートに越してきた日、道端で偶然出会ったこの猫の考えることが私には理解できた。

『貧乏くさい格好じゃのう』

 というコイツの独り言に反応して、「地元で二千円よ、悪かったわね」とうっかり返答してしまったのが全ての始まり。物珍しさからか、もしくは気に入られたのか、それからずっとコイツは私の部屋に居候している。
 別に居候している分には構わない。が、この猫、私が部屋に招く客人には尽く愛想が悪い。特に、二ヶ月前から付き合い始めた彼氏には威嚇し始める始末。

「とにかく、もうあの人を追い返すようなことしないで。もう家に来てくれなくなるかもしれないじゃない」
『来んのなら来んで、万々歳じゃな』
「トラ!」

 ぴしゃり、怒ってみるが、トラは何処吹く風でまた欠伸を一つ。その後に、ソファから立ち上がってぐうっと背伸びをした。

『儂は儂の睡眠時間を邪魔されたくないだけじゃ』
「睡眠?」

 いきなり何を言い出すのか、と思えば、トラはソファから飛び跳ねて、私の前に着地した。とても軽やかな身のこなしで、前足を綺麗に揃えて地に着いたその動きは、ただの野良猫なのに気品さえ漂う。

『あのままここにいたら、あの男はここに泊まるとか言い出したかもしれん』
「だったら何よ」
『男と女が夜にすることなど、一つしかないじゃろう』

 男と女が夜に……、

 !

「なっ……」
『お前の大声で睡眠を妨げられては堪らない』

 向こうは冷静な態度だけれど、いきなり思ってもないことを言われたので、こっちはなんと返していいかわからなくなった。口を動かしてはみるけれど、言葉が出てくるはずもない。
 正直、そういうことは全く考えてなかった。今までそういうことを求められたこともなかったし、そういうことを望む人だと思ったこともない。
 ――でも、帰るときは少し困ったような顔をするなあ、そういえば。
 それは、そういう意味だったのだろうか。

『そういうことじゃ。八時より後、あの男のこの部屋への出入りを一切禁ずる』
「だからって」
『苦情は一切受け付んぞ』

 ……ここ、私の部屋なんだけど。
 そういう前に一刀両断され、トラは踵を返した。ソファの上に戻り、またぐるりと丸くなる。
 ……コノヤロウ。

「ばーか! トラのばーか! ねこー!」
『ガキじゃのう』

 からかう様にそう言ったトラは、一声鳴いてみせる。他の人にはただの鳴き声にしか聴こえないかもしれない。けれど、私にはそれが笑っているような気さえした。

 それは、とても楽しそうな声だった。


 




8時の猫

  (君は一声、にゃあと鳴く)





Thanks For! 8時の猫(cheri様)/Your Name(蒼様)




素敵なお題にひどい駄文です。
素敵企画に提出させていただきました。(2008.09.01)