楽園の赤い果実



※悲恋です。苦手な方は注意。

















「守れないなら、約束なんてすんなよ」

 予想通り、彼女からの返答はひどく鋭利で切れ味の良いものだった。心の奥がずきり、波打つ。そんなことを感じる資格すら、自分にはないとわかっていても。

「ごめん……」
「謝んな。むかつくから」

 彼女の言いたいことは、自分が一番よく理解している。俺が謝るのは、彼女に刻まれた傷の痛みを和らげたいからじゃない。謝罪の言葉を口にして、自身の犯した行為に対しての罪悪感を軽くしたいからだ。こんな結果になった後でもこんな風に考えられるのだからと、自分に対しての過保護さを心の中で嘲った。

「……何ヶ月だって?」
「え」
「お腹の子」
「……この前会ったときは、丁度三ヶ月だって、そう言ってた」
「三ヶ月も隠してたのかよ、お前」

 彼女の言葉が刺さるたび、体内に秘めた温度という温度が徐々に冷めていく。今更、話が現実味を帯びた気がした。別に罪の意識がなかったわけではない。けれど、自分のしたことがどれだけ間違っていたか、改めて思い知った気がした。

「……だから、男なんて嫌いなんだ」

 怒りを纏った声がこちらに向けられる。そんな彼女の顔を、俺は見ることすら出来なくて、向かい合って座った二人の間にある林檎を見つめていた。テーブルの上に置かれた、真っ赤な林檎。「急に食べたくなった」と、この前彼女が大量に買ってきたうちの、最後の一つ。毎日一つずつ、二人で食べ続けてやっと一つだけになったのに、この一つを二人で食べることはもうない。もしかしたら、彼女は怒って捨ててしまうかもしれない。何も知らず、つやつやと光って、食べられるのを今か今かと待っている。
 ……可哀想な、林檎。

「お前が『幸せにする』って、『信じろ』っていうから! お前なら一生一緒にいてもいいって思ったのに……。あたしは、こうなるためにお前と婚約したんじゃない!!」

 声が一気に大きくなり、最大まで振り切れた瞬間と同時、テーブルの上に甲高い音が反射する。間もなくして、先程より少し弱い衝撃音と回るような金属音が聞こえたので、そちらの方を少し見やる。壁と床の境目、見つけたのは銀色の光。
 彼女の指で輝いていた、婚約指輪だった。

「『愛してる』って言葉は嘘だったのかよ!? 何で他の女と寝てんだよ! ふざけんな!!」

 テーブルから身を乗り出して、彼女は俺の胸倉を掴んだ。ぐうっと力が込められているようではあるけれど、悲しいかな目の前の人間は女で、俺の体が椅子から離れるようなことはなかった。目の前に伸びた腕は白くて細く、俺を持ち上げたら折れてしまいそうな程だ。怒りからか、真っ直ぐ突き出されたそれは、小刻みに震えている。
 わかっている、自分が悪いことくらい。自分が哀れなことくらい。もしもこれが逆の立場で――彼女が俺ではない男との間に子を孕んで、俺との婚約を破棄すると言い出したら、多分俺も彼女と同じように怒るだろう。……いや、彼女以上に怒り狂うかもしれない。彼女の一言一言に心を抉られ、今にも逃げ出したい気分だった。

「ごめん。本当、ごめん」
「謝んなっつってんだろ! 謝るくらいなら最初から……っ、」

 彼女が先の言葉を詰まらせたと思いきや、テーブルの林檎の上に一滴落ちて、赤い皮の上を滑り落ちた。白く細い腕が、強く震える。

「……どうして、」

 それは、今までのまくし立てるような大声とは裏腹の、ひどくか細い声で。
 俺の視界はそこで、この話になってから初めて、目の前の彼女をしっかりと捉えた。彼女の顔に浮かんでいたのは怒りでも憎しみでもない。頬を伝い落ちる涙を含めて、それは悲しみの色をしていた。

「どうして、こんなことに……」

 一瞬目が合って、すぐに彼女は俺から目を逸らすように俯いた。両目から溢れた涙は、真下に置かれた林檎へとめどなく降り注ぐ。いつものように強気な態度の彼女はそこにはいなかった。

 ……ああ、俺は間違っていた。哀れなのは林檎でも、ましてや俺でもない。目の前で泣き崩れている彼女なのだ。俺の勝手で、彼女は居場所を失くしたのだから。俺のせいで、彼女はまた一つ、人を信じられなくなったのだから。

 手を伸ばして、彼女の名前を呼ぼうとした。けれど、俺の口から彼女の言葉が紡がれるだけで、俺が彼女に触れるだけで、彼女の心は修復可能な程粉々に砕けてしまう気がして、口内を満たした彼女への言葉も想いも、無理やりにもとの場所へと押し込めた。

 そうか、これが俺に課せられた罰なのか。

 改めて罪の重さを思い知ったら後悔やら自責やらがせき寄せて、目の淵から零れ落ちた涙が一粒、頬を伝って彼女の腕に滴り落ちた。








楽園の赤い果実

(禁忌を犯したアダムのせいで、イヴも居場所を失くしたの)






真っ暗・意味不明になったことに絶望。(2008.06.06)