結局その日、あたしは八潮に焼きそばパンをおごり、八潮にプリンをおごってもらった(ヨーグルトはだだをこねたけどおごってもらえなかった)。確か焼きそばパンが百二十円でプリンが百円だから、実質上あたしが損していることになる。いつもだったら「ずるい」だの何だの言って八潮に突っかかるところだけど、睦月と話せたことから来る喜びと安心でそんなことは気にならなくなっていた。そう、つまりはものすごく浮かれていたのである。
何も知らずに。
* * *
「さっきから何か顔緩みっぱなしですね、宮内先輩」
台の上にマイクをセットしていたら、いきなり安齋(アンザイ)君に一言そう言われ、あたしははっと自分の頬を両手で押さえた。そ、そんなに顔に出るほどにやけてたかな、あたし。まあ、上機嫌なことは自分でも自覚しているんだけど。
「何かいいことでもあったんですか?」
「べ、別に」
「……まあ、どうでもいいですけど。マイク壊さないでくださいね」
ぴしゃりとあたしに注意すると、安齋君は舞台袖へ向かう。多分マイクコードを繋げに行ったのだろう。あたしも頬に添えていた手を再びマイクに戻し、作業を再開した。
今日は半日授業だった。というのも、午後は明日行われる入学式の会場設営に当てられていたからである。そういうわけで、生徒会会計であるあたしも体育館のステージで副会長の安齋君とマイクのセッティングをしていた。安齋君は一つ年下なのに、3年のあたしよりよっぽどしっかりしている。「副会長」という地位に責任とプライドを持っているからきっと意識的にそうなっているんだろうなあ。仕事以外の時は普通に可愛い後輩だし。
「よし、こっちは終了です」
「うん、あたしの方も」
「体育館内の仕事はこれで終了ですね」
「そだね」
終わったー、とあたしはぐうっと背伸びをする。椅子並べ以外はずっとあたしと安齋君の二人でセッティングしたので大分時間がかかったように感じた。いや、実際時間かかったんだけど。
「じゃあ他の箇所の手伝いに行きましょうか」
肩を回しながら安齋君があたしのほうへ近寄ってくる。彼も随分お疲れの様子だ。それもそうか、力仕事はほとんど安齋君が片付けてくれたし。そうだね、と適当な相槌を打ちながらあたしはステージ上から飛び降りようとした。
その時。
「あーもー、むっかつく!」
閑散としていた体育館の片隅に一つの怒声が響く。勿論それはあたしの声でも安齋君の声でもなくて。けれどどう考えても聞き覚えのある声に、あたしたちは一瞬びくりと肩を震わせて声のした方へ目を向けた。
体育館ステージ寄りの出入り口に現れた一つの人影。ああ、遠くからでもよくわかる。黒髪に赤メッシュ、碧色のカラーコンタクト、身なりこそしっかり整っているものの顔があそこまで派手だとあまり意味がない気がする。いっそのこと服も崩しちゃえばいいのに(そんなこと口に出したら絶対安齋君に怒られるけど)。
三年A組、田中和人(タナカ カズヒト)。わが高校の生徒会長様。
「どうしました? 会長」
「どうしたも何もねえよ、聞け安齋!」
あたしの隣で呆れ顔の安齋君のところへ会長が走り寄ってきた。やっぱりこういう光景を見ると安齋君はあたしよりずっと大人に感じる。……ただ会長が子供っぽいだけかもしれないけど。
「生徒指導に会っちまってさ、明日の式で挨拶すんのに『髪黒くしろ』だの『カラコン外せ』だの散々言われてよー。これは『田中』という平々凡々な苗字に生まれた俺のささやかな自己主張だって何度も言ってるっつーのに! あー、思い出しただけで腹立つ!」
「それのどこが『ささやか』なんだか教えていただきたいですね」
全く持って。というか、それはもう完璧に会長が悪いとしか言いようがない。入学式で生徒代表として舞台に上がる人間がこんな校則違反上等な格好だったら、新一年生は誰もがこの学校の教育方針に疑問を抱くし、保護者から来るクレームの嵐は目に見えている。第一この派手な男が生徒会長をやっていること自体、先生たちは気に入らないみたいだ。立候補した時は今の状態から想像できないほどきっちり校則を守った格好だったから尚更。生徒会に当選した一週間後に今のスタイルで学校に来たときは皆度肝を抜かれたような顔をしていたのをよく覚えている。まあそれでも彼が生徒からの厚い支持を受け会長をやっているのは、持ち前のリーダーシップと芯の強い彼の内面ゆえなんだろうけど。
「それより会長、こちらの方の準備は終わりました。他の仕事は?」
「あーそうだなー。……あ、そうそう、お前らに一つ言い忘れてた」
安齋君の言葉に会長は思い出したと言わんばかりに手を叩く。……まだあるんだ、仕事。もう結構な時間働いてるのに……。けどあたし達以外の生徒会役員はまだ昇降口で受付のセッティングしてるんだろうし、ここで終わるはずないか。
「舞台袖んとこにある荷物、あれ体育倉庫に運んどけって。あと、隣の袋はゴミだからゴミ捨て場に。それ終わったらここは終了だな」
舞台袖の荷物……、ああ、そういえば隅にあったな、大きい段ボール箱2つと水色のゴミ袋。死角に追いやってあったからてっきりそのままでいいのかと思ってた。安齋君も「触らぬ神に祟りなしと同じことです」ってスルーしてたし。
「うん、了解。会長」
「お、さっすが宮内。ものわかりのいい部下を持って俺は非常に幸せだ」
そう言って、会長はあたしに微笑みかける。屈託のない、太陽のような笑顔。
だって知っているから。会長はこういう外見だけど、中身はしっかりとしている人で、色んな事を色んな人から頼まれる。きっとこの件も誰かに頼まれたんだと思う。いつも誰から頼まれたとかあたし達には言ってくれないけど。そんな誰からも信頼されて、けどそれに媚びようとしない会長だからこそ、あたしも他の生徒会役員も会長を尊敬してるし、サポートしようと思えるんだ。
「じゃあ俺と会長でダンボールをどうにかしますんで、宮内先輩はゴミ袋お願いできますか?」
「うん」
今は自分の出来る精一杯をしなくちゃ。
あたしは、安齋君と会長と共に舞台袖へと向かった。
* * *
「あ、南じゃん」
うちの体育館の隣にあるトレーナーズルームにはその辺のスポーツジム顔負けの機材が一通り揃っている。そこのウォーキングトレーナーで一汗流していたところに現れたのは、同じクラスになったばかりの中川陽平だった。サッカー部特有の黒いジャージを着て、下は体育の時のハーフパンツを履いている。
「『南』なんて他人行儀だな、八潮でいいぜ。俺も下の名前で呼ぶし」
ウォーキングマシンを止めて、そこから降りる。奴もここに一汗流しに来たのだろう。明日の入学式でグラウンドは駐車場になるから、今は使用規制されてるみたいだしな。俺のところも体育館に椅子入ったから同じようなもんなんだけど。
「バスケ部は他の奴いないの?」
「他の奴はロードワークに行ったり市民体育館まで打ちに行ったり。俺は外に出るのが面倒くさかったからここで自主トレ」
走るのを止めたと同時に、今まで感じていなかった疲労感がどっと体に押し寄せてくる。暖かい気候のせいもあってか、髪から汗が滴り落ちるほどに体が熱い。俺は深く息を吐きながら陽平の前に座り込んだ。
「へえ、自主トレにしては随分ハードな練習してんのな」
そう言いながら、陽平は俺の前に座る。どうやら話し込む気満々らしい。練習しに来たんじゃないのかよ、お前。……けど、さっきの台詞、全部分かって言ったなんて事はないよな? いや、ないか。俺たちまだ知り合って日も浅いし。
「そういうサッカー部はどうなんだよ」
はぐらかすように俺は陽平に話を振る。
「そっちと似たようなモン。公園行くか、道路走るか、もう帰ったか。あとはまだ駐車場の整備に追われてるのが数名」
「ふうん」
話を逸らすのに成功して、俺は内心ホッとした。陽平にまだ気付かれたくないのもそうだが、俺自身、まだ気付かないフリをしていたかったんだ。
今はまだ、知らなくていい。
……そう言えば。
「陽平、一つ訊くけど」
「何」
ずっと気になっていたこと。それは始業式の日にに陽平と睦月の間で交わされた、あの会話。
『おー、サンキュー。マジ助かった。園原さんにありがとうって伝えといて』
『何で俺が』
『だって園原さんは……、あーやっぱ何でもない。うん、自分で伝えるわ』
『だって園原さんは』
この後に続けようとした言葉。七瀬は全く気付いてなさそうだったけれど、俺はあの時から少しその言葉がひっかかっていた。あの時の陽平の焦った様子、園原だかなんだかいう子がマネジやってるっていう事実だけであそこまで慌てるもんだろうか。
「『園原さん』って睦月の何?」
こういう話は回り込むだけまどろっこしい。本人たちはいないし、直球勝負。
「ただのマネージャーじゃあねぇよな?」
単刀直入に切り込んでいくと、陽平は随分としらじらしく俺から目を逸らした。どうやら図星らしい。こいつ、絶対隠し事とか上手く出来ないタイプだ。その反応から「まさか」と思ってみたが、とりあえず訊いてみることにする。
「……彼女?」
「ち、違う!」
そこだけは精一杯の否定を見せた陽平。ただ、未だ慌てた様子は消えない。じゃあ、あの言葉の続きの真意は? そう訊こうとしたけれど、そう言うより先に陽平が口を開いた。
「……宮内には言うなよ? 野々原さんにも」
意を決したような真剣な目で俺を見据える。陽平がこれから何を言うのか、ある程度の予想はついていたけれど、やっぱり緊張は拭えない。俺はゆっくりと頷くことしか出来なかった。
「……実は、園原さんは――……
* * *
外に出てみると、暖かな気候の中で部活に励む人たちが多く見受けられた。といっても、体育館もグラウンドも使えないから、筋トレしている人が多い。中にはバレー部やテニス部がボールを使って練習していたりするけれど、本格的な練習をしている人はいなかった。
あたしはというと、会長と安齋君と一緒に体育倉庫へと向かっている。体育倉庫はゴミ捨て場までの通り道だし、当然の如く一緒の経路で行くことになったのだ。
二人は重そうなダンボールを軽々と抱えて談笑している。こういうところ、男の子はうらやましい。
そういえば睦月や八潮もそうだったな。あたしが重そうな荷物持ってるときは助けに来てくれたりした。そういうところは「男の子なんだなあ」と今でも思う。
「……、なあ、宮内?」
「へ?」
「今完全に聞いてませんでしたね」
過去を回想していたら、二人に話を振られているのを全く気付かなかった。ああ、今さっき『自分の出来る精一杯をしよう』って自分に誓ったばっかりなのに。
「だーかーらー、代わりの会計、早く見つかるといいなって話」
「……あ、そうか」
「本当に……忘れないでくださいよ、先輩」
自分のことなんだから、と安齋君に深くため息をつかれた。別に忘れていたわけじゃない、他のことで頭がいっぱいだっただけだ。
うちの生徒会は会長一名、副会長・書記・会計各二名で構成されている。現に副会長は安齋君ともう一人三年が、書記も三年と二年が一人ずつ置かれているのだ。では会計はというと、二人いた、三月までは。けれど、そのもう一人の子が修了式と同時に転校してしまったので、只今会計が一つ空枠になっている。会長や先生と話し合った結果、「希望者・適任者が現れるまで待つ」ということになったのだけれど、未だにそんな人は現れないままだった。
「いっそのこと、一年から選出できたら楽ですよね。仕事刷り込みやすいだろうし、三年まで使えるようになりますから」
さらりとなんだか冷徹なことを言ってのけた安齋君。確かにそれは頷けるのだけれど、何だか言い方がよろしく聞こえない。まあ、他の二年生も後輩が出来るわけだから、一年だったら皆接しやすいよね。二年や三年がいきなり職に就いても、教えるのがいろいろ大変そうだし。
「っと、俺と安齋はここまでだ」
気がつけば、目の前には体育倉庫。安齋君と会長とはここで一旦お別れだ。ゴミ捨て場はグラウンドの奥、まだまだ道のりは遠い。
「じゃあ、頑張ってくださいね」
「仕事終わったら一旦生徒会室来いよー」
二人の声に見送られながら、あたしは彼らに背を向けてゴミ捨て場へと歩き出した。
部活動を行っていないグラウンドというのはなんとも寂しいところだ。それが整然と整理されているから尚更。いつもは、サッカー部がグラウンドを走る音が絶え間なく聞こえているのに……。
(……あ、)
ずっと忘れていた、この場所のこと。いや、意識的に消していたのかもしれない。あの日のことを思い出したくなくて。
高校の敷地内、グラウンドの片隅。そこにあるのは、あの日と同じ……満開の花をつけた桜の木。他の桜はもうとうの昔に散ってしまったというのに、この桜はまだしぶとく花を咲かせていた。まるで、あたしがここに来るのを待っていたかのように、あたしを戒めるかのように。まだ随分とそこから距離があるけれど、体に微かな身震いを覚えた。
あの場所は、あたしと睦月の終わりの場所。睦月に、別れを告げられた場所だ。
(……大丈夫)
大丈夫。もう、大丈夫。
やり直すって決めたから。あたしは睦月と、また友達から始めるって決めたから。
自分に言い聞かせるように何度も心で唱えながら桜に近づいていく。すると、根元のところにいる小さな人影に気付いた。ここの生徒……じゃないよね? 私服着てるし、まだ少し幼い感じが残る。それに……金髪?
――近所に住んでる子かな?
そんな事を考えながら見ていたら、こちらに気付いたのかふと彼はあたしの方に振り返った。
どきり、とした。
決してそれは愛だの恋だのの類のものではなく。
渦巻くような、不安。
揺れた、その瞬間、あたしの世界が、あたしの心が。
この桜は心底あたしを呪っているのだと、そう感じずにはいられなかった。
そこにあったのはあの日と同じ満開の桜と、
あの日と同じ空の色をした蒼色の瞳。
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