昔、すごく大切にしていたお気に入りのグラスを割ってしまったことがある。ジュースを飲むのは勿論、食事の時のお茶や薬を飲むときもそれを使っていて。だから、急にそれがなくなったことがすごく悲しくて、頑張ってボンドで直そうとしたけれど、「危ないから」と親に止められた。
「また新しいのを買うから我慢しなさい」と。
あたしたちの関係も同じように、また新しく出来ればよかったのに。出来ないのならば、もっと大切に掴んで放さなければよかったのに。
いつまで経っても物分りの悪いあたしは、いつも自分の手で大切なものを壊していくんだ。
* * *
その瞳の蒼はあの日の空の色にすごく似ていて、少なからずあたしは動揺した。もう出てくることのないと思っていた嫌悪と不安が一気に駆り立てられる。わかっているのに。もう大丈夫だってわかっているのに、頭の中では。けれど、その色のコントラストはあの日の記憶を鮮明に思い出させて。
『ごめん、七瀬』
あの日の睦月の言葉が、脳裏を過ぎって。
瞬間的に力の入らなくなった手からゴミ袋が抜け落ちて、地面の上に掠れた音を立ててぶつかる。
「あ……」
きちんと袋の口を閉めていなかったせいだ、ゴミ袋の中身がこぼれてしまった。あーあ、今日はなんだか踏んだり蹴ったりだ。やっぱり桜の呪いなんだろうか。あたしはすぐその場にしゃがみこんでゴミを拾い始めた。
急がなきゃ、また遅くなると安齋君に「しっかりしてくださいよ」と一喝されてしまう(会長はきっと何も言わずに私が安齋君に責められるのを見てるだけだろうけど)。それにまだ仕事が終わったわけじゃない。受付のセッティングが終わってないようならそっちに回らなきゃいけないし。
その時、あたしの視界の上に現れた白い手があたしのばら撒いたゴミを一つ摘み上げた。顔を上げると、さっき桜の下にいた少年が袋にゴミを入れながらにこりと笑って見せる。自分がやっていることと全く別のことを考えていたあたしは、周りには目もくれず淡々とゴミを拾っていたので、金髪蒼眼の少年があたしの目の前に来ていたことに気付かなかったし、ましてや彼があたしのゴミ拾いを手伝いだしたんだからかなり驚いた。
「……あ、ありがとう」
……って、日本語通じるのかなこの子。どう見ても日本人じゃないよね?
肌白いし、眼はカラコンじゃなさそうだし、第一顔の作りが根本的に違う。一言で言ってしまうなら「美少年」という単語が一番しっくりくるかもしれない。のんちゃんが睦月のことを「王子」って呼んでいるけど、彼のほうがその呼称はふさわしい気がする。
「構いませんよ、俺は」
あ、日本語通じた。しかも流暢な日本語で返してくれたし。
その容姿とマッチした、ボーイズソプラノで彼は丁寧に対応してくれた。……その容姿と日本語は随分とマッチしていないようだったけれど。
そんな対応を交わしている内にあたしはゴミを全部拾い終えた。大げさな音の割にはあまり散らばらなかったようだ。もっとも、この少年が手伝ってくれたおかげもあると思うけど。あどけない顔をしているくせに体はちゃんと大人で、背はあたしより小さいけど手はあたしより一回りも二回りも大きくて一気に拾ってくれたのだ。
「じゃあ、俺はこれで」
天使のような笑みを見せて少年は立ち上がる。あたしもゴミ袋の口を今度はきちんと縛ると、彼を追うような形で立ち上がった。
……あ。
「君、ちょっと待って」
「え?」
もう既に去ろうとしていた彼を呼び止めて、あたしは彼へ手を伸ばす。そして、髪の上に乗っていた一枚の桜の花弁をそっと摘んで取ってあげた。金色の髪から零れ落ちた桜色はすごく綺麗、青空に映える桜色よりもずっと。
「……ありがとうございます」
「うん、じゃああたしはこれで」
微笑を返して、あたしはゴミ袋を持って再び歩き出す。少年もまた、あたしとは逆方向に歩き出した。そして、あたしと少年はすれ違い――、
「また会いましょうね、『ミヤウチナナセ』さん」
……!
あたしの名前を呼んだのは、あたしの名前を知るはずもない少年の声。驚いて振り返ると、金髪の少年は顔を右半分だけこちらに向けて笑っていた。さっきの天使のような微笑ではなく……、「ニヤリ」と効果音がつきそうな含み笑いを浮かべて。
「それでは」
何であたしの名前を知っているのか。さっきの言葉が示す意味は。訊きたい事がたくさんあったけれど、聞こうとする前に彼はまたさっきの優しい笑顔を浮かべて再び歩き出した。もう、顔は見えない。
……不思議な子。というより、少し怖い。
『また会いましょうね』
会えたらいいですね、じゃなくて、会いましょうね。まるでそれは、彼とあたしがまた近い日に絶対会うと予言されたようで。状況が上手く飲み込めないまま、あたしは彼を呼び止めることが出来なかった。
* * *
「……あっそ」
陽平の発言を受けて俺が発した一言はこれだ。その反応があまりにも意外だったのか、陽平は目を丸くして俺を見ていた。俺がもっと取り乱すと思ったんだろうか。……まあ思うか、話題が話題だから当たり前っちゃあ当たり前だ。こいつがどこまで知ってんのか、わかんねぇけど。
「あっそって……、随分と冷静だな」
「別に俺が取り乱すようなことじゃねぇじゃん。俺にゃ関係ない話」
そう、別に園原葉摘が何をしようと睦月とどうだろうと俺には関係ない(まあ関係を問い詰めたのは俺だけど)。それにそれくらいの事だったら大して慌てるようなことじゃない。
第一、陽平が予測してるような状況は多分起こらない、あいつの律儀な性格と……、七瀬がいることを考慮すればこそ。
確率が百パーセントとは言い切れないけど。
「……まあ、それもそうか」
そうだよな、と念を押すように口にすると陽平は立ち上がって俺の横をすり抜ける。どうやら隣のベンチプレスでトレーニングするようだ。サッカーって腕の筋肉とか関係あるのか?
「あ、俺、ゴールキーパーだから」
あ、なるほど。
俺が不思議に思ってたのがわかったのか、自分でも不自然だと思っているのか、ベンチプレスに横たわりながら陽平はそう苦笑した。
……さて、俺も練習に戻るかな。
まだ疲れの抜け切っていない体を持ち上げて、俺はゆっくりと立ち上がる。髪や頬を伝う汗をTシャツの袖で拭い取りながらまたルームランナーの上に乗った。
「八潮は大丈夫でもさ」
俺がルームランナーの電源を入れたのと同時に、陽平が微かな声で零す。
「……宮内は、どうだろうな」
その言葉に聞こえないフリをして、俺はまた走り出す。返す言葉がわからなかったわけじゃない。あいつがどうなるかなんて……予想できるから、だから口にしなかった。
俺の言葉があいつを傷つける気がして、怖かったんだ。
* * *
ビニル袋をゴミ捨て場に投げ入れたら肩はふっと軽くなった。何だかんだでそれなりの重さはあったし、大きさも結構なものだったからなあ。今は思わずスキップでも踏みたくなる位だ。ただ、今のあたしはそんなことが出来るほど上機嫌じゃないし、うかれてもいない。あの子に会う前のあたしだったら、話は別だったかもしれないけど。
――なんで知ってたんだろう、あたしの名前。
さっきの会話の中で名乗った記憶はない。ましてや昔会ったことがあるわけもない。日本人離れした顔立ち、インパクトを残さない方がおかしいのだ。第一あたしはあの子の名前を知らない。なのに何故、あの子はあたしを知っているんだろう。どうやってあたしの名前を知ったんだろうか。あたしの友達と知り合いとか? けど例えそうだとしても、いったい何のためにあたしの名前を知る必要があったんだろう。一つ悩み始めたら悩みは尽きず、そして考えていても自分の中で答えが出るわけでもない。
――また会えたら、話は早いのにな。
いや、多分会うことになる気がする。あの口ぶりと態度、思わせぶりなんてことはないと思う……、多分。
どちらにせよ、彼にはもう一度会って聞き出す必要がありそうだ、このままでは喉に小骨がつかえているようで気持ち悪い。
……と、早く生徒会室に戻らなきゃ。きっと会長と安齋君はもう戻っているはずだし、他の役員もいい加減仕事が終わっているはずだ。それに、あたしが生徒会室に行かないことには会長は帰れないわけだし。
そう考えながらゴミ捨て場を後にしようとした時だった。後ろの体育倉庫の中から聞こえた人の声。
「……ずっと前から……好き、でした」
振り絞った様な声。
女の子だと思う、声しか聞こえないけど。
あたしが今いるのはゴミ捨て場――体育倉庫の丁度裏側なので確認しようにも出来ない。ただ、上の小窓が開いているお陰で声は筒抜けだった。
どうやら、誰かの告白現場に遭遇してしまったようだ。まあ、別にあたしは他人の色恋沙汰に興味はない。だから人の告白現場を立ち聞きするような悪趣味も持ち合わせていない。あたしはすぐにその場を立ち去ろうとした。お二人ともお幸せに、とか何とか思ったりして。
「……私と、付き合ってくれませんか?」
「坂下先輩」
……え?
「園原さん……」
脳裏を過ぎった不安は確信に変わって、あたしの足を地面に縛り付ける。
確かにそれは睦月の声で、その声が呼んだのは、中川君がさっき話していたサッカー部のマネージャーさんの名前で。
意味が分からない、いや、分かりたくない。
けど、あたしの脳内で無意識の内に事は整理されて明確になろうとしている。それは止められない。
睦月を信じたい。あの日、別れたときに言ったあの言葉を信じたい。
そうだよ、睦月が部活頑張りたいからってあの時別れたんじゃん。それを今、誰かと付き合うなんてありえない。
ありえるわけ……ないよ。
けど、裏側に潜んでいる不安と焦りは睦月を疑うことしか出来ずにいる。
信じたいあたしと、信じられないあたし。
だからただ、そこで聴いていることしか出来なかった。
少し間を開けて、睦月はゆっくりと喋りだす。
そして、あたしの想いは――、
「……いいよ、わかった」
見事に、崩れ落ちて。
「園原さんのことは、俺も少し気になってたし」
何も、考えられなくなって。
「……付き合おう、俺たち」
あたしはただ、そこに立ち尽くすことしか出来なくて。
目の前から、光が奪われたような気がした。
* * *
どんなに頑張っても、どんなに努力しても。
一度壊れてしまったら、もう元には戻らない。
絶対に、戻らない。
『園原さんは……睦月が好きなんだ』
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