あれから、あたしは……どれ位の時間泣いていたのだろう。そんな考えに辿り着いたのは、もう瞳を伝う涙すら枯れて声も掠れ始めた頃だった。けれど、別の事を考える余裕が出来たわけじゃなくて。何か別のことを考えなければ、悲しみに飲まれてしまいそうで怖かっただけ。
静寂が怖くて、ぼやけた視界の中、手探りでリモコンを探す。そして、テレビのものかラジオのものか分からないそれを取り、縋るような思いで電源ボタンを押した。
『……リクエスト頂きました、○○区の――』
女の人の明るい声、バックグラウンドで流れるジャズ調のサウンド。それだけで、いつもお風呂上りに聴いているFMラジオだと分かった。もうそんな時間になってたんだ、早くお風呂入らなきゃ。明日も学校がある。もう一度、電源ボタンに指を置いたその時、
『例えば偶然 もしくは必然 僕らはずっと繋がって――』
流れたのは……睦月が教えてくれた、あの曲。
一瞬思考が止まって、その後湧き出すように睦月との思い出が脳内を駆け巡り始める。それを止める術も、消し去る術も、あたしは知らない。
ねえ、睦月。
まだ、あの歌を歌える?
あたしは――、もう……歌えない。
枯れたはずの涙がまた溢れて、それでも声は掠れたままで、
もう、歌えないよ――。
* * *
「宮内さん、瞼が少し腫れていますよ」
ふ、と目の前に差し出された濡れタオル。目線をその手から上のほうへ辿らせると、いつもと変わらない様子で藤村さんが柔らかな笑みを浮かべていた。長く艶やかな黒髪が春風になびいて、ふわり、揺れる。
「あ、ありがとう。……あの、」
「大丈夫ですよ。近くで見なければ分からない程度に、ですから」
入学式の方に支障はありませんでしたよ、と付け足して私の手の上に濡れタオルを置いた。……お言葉に甘えて借りることにしよう。心の内で安堵しつつ、タオルを瞼の上に軽く当てる。春の水はまだ少し冷たくて、肌に触れる瞬間体が少し震えた。
入学式後、体育館からの帰り道。新入生はあたし達が明日の準備をしている間にほとんど帰ってしまったらしく、校舎の内も外も静まりかえっている。式の後片付けは明日の対面式が済んでからになるので、私は藤村さんと生徒会室へと向かっていた。
藤村さんは我が生徒会のもう一人の副会長で、会長と同じ三年A組。付け加えて実家は茶道の家元であり、物腰柔らかな態度と丁寧な口調はそれが関係しているのだと思う。あの破天荒会長とは正反対の彼女がいるからこそ生徒会の秩序が保たれているといっても過言じゃない。
「それにしても、いい式でしたね。温かな雰囲気で」
「うん、……会長の挨拶がなければ完璧だったんだけど」
「ふふっ、こういった行事にアクシデントは付き物ですよ。それに、田中君もあの後校長室でたっぷり絞られたようですから」
藤村さんは他人事みたいにさらりと話すとにっこり微笑んだ(いや、実際他人事なんだけれど)。
……呼び出されたって聞いてはいたけど、あれ、校長室だったんだ。
そりゃそうだよね、結局頭髪もカラコンもあのままで壇上に上がったと思えば保護者も見ている前で、
「勉強なんて必要ねえ、とにかく遊べ! 自由に生きろ! この俺のようにな!」
なんて発言すれば、お叱りを受けない方がおかしい。一応「進学校」と銘打たれた高校だ、クレームは来て当然。まあ、ある意味会長らしいっていえばらしいけど。
「では、私は職員室に用事があるので。田中君達によろしく伝えておいてください」
気が付いてみれば私と藤村さんは職員室の前に来ていた。生徒会室は職員室の隣の隣にある(ちなみに職員室と生徒会室の間には印刷室がある、今はあまり関係ないけれど)ので、藤村さんとはここで一旦お別れだ。
「あ、うん。タオル、洗って返すね」
「お気になさらず。それでは」
礼儀正しく会釈して、藤村さんは職員室に入っていく。私の元には花柄の濡れタオルと静寂だけが残った。
うちの高校の入学式は、特殊なのかどうか知らないけれど、在校生は参加しない。新入生とその保護者、学校側は職員と生徒会役員、校歌斉唱のための吹奏楽部だけで行われ、他の在校生とは明日行われる対面式で初めて顔を合わせる。だから、他の在校生は休み。部活も校内では行えないので、部活自体も休みになったり他校に遠征試合に行ったりしているみたいだ(実際、のんちゃんは近くの高校に交流試合に行ってるみたいだし、八潮も隣の市まで練習に行くと言っていた)。
正直な話、今日が入学式ですこしほっとした。昨日の今日で八潮やのんちゃんと顔を合わせるのはちょっとキツイ。いくら作り笑いが出来たところで、あたしはあの二人を完璧に騙しきる自信なんてない。どんなにいつも通りを装ってみても、あの二人には――特に八潮にはすぐバレてしまう。二年も一緒にいればそういう変化も自然とわかるようになるのかもしれない。
……多分、藤村さんも気づいていたのかもしれない、あたしがずっと作り笑いしていたこと。わかっていて、理由を聞かないでくれたんだと思う。いつも周りをよく見て言葉を選ぶような彼女が、あたしの変化に気付かないはずがないから。
あたしの周りの人はみんなそうだ。優しくて、優しすぎて。それがどうしようもなく嬉しくて、けどどうしようもなく悲しい。あたしは無力だ。周りに頼ってばかりで、あたしからは何も返せていない。
……、しっかりしなきゃ。これから少しずつ返していかなきゃいけないんだ、今までもらった優しさを。
――とりあえず、生徒会室に戻るか。
挟むように両頬を掌で叩いて気合を入れる。そして少しの深呼吸。……、よし。覚悟を決めて生徒会室の扉の前で立ち止まった。
「あ、宮内先輩」
その時、丁度いいタイミングで生徒会室へと繋がる引き戸が軋む音を伴って開く。ガタがキてるのもあるかもしれないが、多分力一杯開けたからだろう。と考えたのも、引き戸を開けて中から出てきた人物が眉間に皺を寄せていたからだ。
「丁度いいところに」
ドアの向こうから出てきた安齋君は私を見つけると直ぐにこちらの方に駆け寄ってきた。そして咄嗟に私の腕を掴んでぐいと引く。
「先輩からも何か言ってやってください。今この状態を止められるのは、あなただけです」
「え? ちょっ、どうしたの? 何があったの?」
あたしの返答に聞く耳持たずの安齋君は、あたしの腕を引っ張って生徒会室に入る。一つ年下といってもさすがは男の子で、あたしはその力に逆らうことも出来ずにそのまま生徒会室に引きずりこまれる形になった。
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