茅原高校での練習試合が終わったのは、既に午後1時を回った後のことだった。勿論、朝早くからだったので昼飯は食べてないし、昼前には終わる予定だったので弁当も持っていない。
――マックにでも行くか、金ないし。
試合後の控え室、ワイシャツに袖を通しながらそんな風に考えていた。汗の匂いが部屋にむせ返り、人の熱気で暖かいを通り越して暑い。
「八潮―、俺らこれから飯行くけど、お前どうする?」
「あー、俺、金あんま持ってねえから」
「大丈夫、ファミレスだし」
金なら貸すぞー、という声も聞こえたが、借りた後が怖いので出来るならやめておきたい。この前借りた奴が三倍返しとか言われてたし。貧乏学生にはたった500円でも大切なのだ。かと言って、そこでばっさり断るのも気がひける。練習試合と言えど、快勝した後だ。空気を悪くしかねない。何か上手く逃げる理由はないものか。陽平かなんかに協力してもらえねえかなー、なんて考えながら鞄の中の携帯を取り出した。
――お、メール。
着信ランプが青く点滅している。未読メールがあることを知らせる点滅。メルマガに登録してるわけではないので、意味のないメールではないだろう。すぐさまメールの内容を確認する。
「で、どうすんの? 八潮」
「……あー、わり、ちょっと用事出来たわ、パス」
携帯を閉じて、自分のスポーツバッグをすぐさま肩にかける。携帯をまだ手に持っているのは、この部屋を出てからあのメールに返事をしようと思っていたからだ。メールじゃ時間がかかるし、電話で、直接。
「お疲れーっす」
さらりと挨拶して後ろ手に手を振ると、背中に何人かが同じような挨拶を返してきたが、それに振り返る事無く、教室を出る。
そして、教室から少し離れたところで携帯を開き、あいつに電話をかけた。
* * *
昨日、何かあったのだろうか。
金髪の一年に手を引かれて生徒会室を出て行った先輩を見送った後、彼女の笑顔がふと浮かんだのでそんなことを考えた。
入学式の準備を終えてから、正確には、昨日、俺や会長と別れて一人でゴミ捨てに行った後から、宮内先輩の様子がどことなくおかしい気がした。笑っているのに笑っていないような、どこか陰りのある表情。周囲に気付かれないように凛として、けれど少しでもそれに関して口にすれば泣き出しそうな。結局、仕事が終わってすぐ帰ってしまったので、そこから後のことは知らないのだけれど。……多分、彼女は泣いたのだと思う。瞼は微かに腫れ、声も本当に少しだが嗄れていた。
……今から追いかけようか。今、彼と――仁科と一緒にいて大丈夫なのだろうか。
「余計なこと考えるなよ、安齋」
「! ……どういうことですか」
ふいに自分に向けて発せられた声に少し驚いたが、出来る限りの平静を装ってデスクの方に振り返る。会長は自分のデスクの上に足を乗せて、生徒会の書類を何ともなしに眺めていた。この位置からでは書類が邪魔になって顔が見えないが、笑っていないことは声色でわかる。先ほどの明るく騒がしいものとは一転した、芯の通った鋭い声。
「どうせ宮内のところに行こうとか思ってんだろ?」
「……だったら、何ですか」
否定はしない。たとえ「違う」と言ってみたところで、この様子では信じてもらえないだろう。何よりその否定は意味を成しえないものだと自分でも分かっていた。ひたすらに、会長の顔をじっと見やる。すると、書類を持っていた手がふと下がり、その向こう側にいた会長と目が合った。やはり、その眼は笑ってはいなかった。
「やめておけ、って言ったつもりだったんだけど、俺は」
「貴方に、俺を止める権利があるとでも?」
「あるね。俺、会長だし」
……普段、会長らしい振る舞いをしているわけでもあるまいし、よくもいけしゃあしゃあと。こういう時ばっかり権限を振りかざすからこの人は……。
「それに、」
反論を掲げる前に、会長の付け足しが遮る。
「あいつは……、まだ自分の足で立ってるだろ?」
自分の足、で?
……あ。
「俺らに弱みを見せようとしないってことはそういうことだろ? 手を差し伸べたところで振り払われるだけだ」
……そうだ、彼女はそういう人だ。どんなに辛い状況でも笑っていて、けれど陰で人知れず涙を流す。
実のところ、たった一度だけだけれど、彼女が生徒会室で一人泣いているのを昔見たことがあった。俺が来たのに気付くと彼女はそ知らぬ顔で笑って、だから俺も知らないフリをしたけれど。あの時の涙の理由と、今彼女を苦しめている要素は同じなのかもしれない。あの時と、笑い方が同じだから。
それは、同情を拒絶する、偽りの笑み。
「なら、気付かないフリして見守ってやるべきなんじゃねえ? それが多分、宮内が今一番望んでることだって俺は思うよ」
「……はい」
どう足掻いても、俺はあの人を救うことは出来ない。あの人が必要としていないのだから、俺には、彼女の涙を拭うことすら許されないのだ。今はただ、遠くから見守る。彼女が押し潰されそうになったときに、気付かれないようそっと支えられるように。
「……なんてな」
会長の真面目な調子が崩れて、おどけたようにぺろりと舌を出す。
「実は今朝、オレも同じようなこと言われたんだよ。『必要なのは気付かないであげることだ』ってな」
「え、誰にですか?」
「藤村」
……成程、確かに藤村先輩がそういった事を諭すなら少し納得がいく。会長も(認めたくないけれど)周りの変化を読み取れる人だが、その後の判断を誤りがちだ。自分中心に考えて突拍子もない行動に出ることが多い。それを正しい方向に導けるのは、生徒会では藤村先輩くらいだろう。……いや、校内でも彼女くらいかもしれない。
「……にしても、お前も大変だな」
ふと零して、会長は喉を鳴らして微かに笑い声を上げた。言葉の真意がよくわからなかった俺は、眉を顰めてどういうことかと問う。
「どういうことって……、あー、別にわかんねえならいいや」
「よくないですよ。何ですか、大変って」
「いやー、これは自分で気付かないことにはねえ。俺が言えるのはここまで」
「はあ……」
……一体何の事だろうか。自分ではあまり何かを頑張っているつもりはないのだけれど。生徒会のことも、宮内先輩を心配することも当たり前のことで。もしもこれが会長のことでも……、いや、会長だったら然程気にかけないかもしれない。藤村先輩だったら、いや、藤村先輩でもそこまでは……。
……ん?
いや、そんなわけないか。
「まあ、俺はいつも誰かのお陰で迷惑被ってますけど」
「何? 誰だ、そんな奴は!?」
「自分の胸に手を当てて聞いてみたらどうですか」
* * *
姉妹校との合同練習が終わり、私は同じ弓道部の友達と駅に向かって歩いていた。うちの高校は入学式で今日は敷地内にすら入れないので、隣の市にあるその学校の弓道場の一部を借りたのだ。こういう機会がなければこの市に来ることも少ないので、いつもと違う街並みは少し新鮮だ。
「ののさ、お腹空かない?」
隣を歩いていた友達が呟くように訊いてきた。
「のの」は私のあだ名の一つだ。普通に下の名前で呼ぶ子もいるけれど、「野々原」という割と珍しい苗字のお陰で、それにちなんだ名前が多い。「のの」とか「のんちゃん」とか、私本人からはかけ離れた可愛らしいものが多いのだけれど。それでもそう呼ぶのを否定できないのは、親友とも思える人がそう呼んでいるからかもしれない。
「そうだね。どっかで食べてく?」
「食べる。もう何か食べないと足に力入らないし、適当にどっか入ろう」
冗談めいてお腹を押さえながら眉尻を下げる彼女に微笑みつつ、どこか丁度いい飲食店を探してみると、車線を挟んで反対側にファミレスを見つけた。もうお昼を過ぎているせいか、店内に座る人もまばらで空席も見当たる。値段も手ごろだし、そこに入ろうか。そう口に仕掛けたその時、窓際の席によく見知った顔を見つけた。黒髪の癖っ毛、うちの高校の制服、お世辞にもいいとは言えない目つき。
――南、だよね?
そういえば、あいつもこの市にある高校で試合があるとか昨日言っていた。なら、この街のファミレスにいても可笑しくない、か。もうテーブルで何か食べているところを見ると、部活はずっと前に終わったのだろう。
もしも、ここで私が見つけたのが南だけだったら、私はあいつのところへ行って声をかけたかもしれない。けれど、南の向かいに座っている人物を見つけて、それが誰だかわかってしまったその時、私の行動と思考は一瞬停止した。それは、ありえなくはないにしろ、今となっては少し奇妙な組み合わせ。
「のの、そこのファミレス入る?」
「……いや、別を探そう」
「え、何で」
「知り合いがいるみたいだからさ。ちょっと会いたくないし」
ごめん、と顔の前で手を合わせれば、彼女は渋々といった形だったら了承してくれた。「後でデザート奢ってよね」なんて暢気なことを口にするくらいだから、私の真意には多分気付いていないのだろう。
今、あの二人に鉢合わせるのはまずい。ましてやこっちは無関係の人間を連れているのだ。彼女を私たちのいざこざに巻き込むのは忍びない。……いや、実際のところ私も「無関係」になるのかもしれないが。
彼女の背中を押して歩き出しながら、私は今一度二人の方へ振り返る。すると、丁度窓の外へと視線を移した南と目が合った。もう一人――南の向かいに座った方は私のことに気付いていないらしい。どうリアクションを取ろうか、一瞬戸惑う。が、南はすぐに視線を店内へと――向かいの席にいた人物の方へと戻した。まるで、「自分は何も見なかった」という様に。いや、その動作一つで、私に伝えたかったのかもしれない。
「こっちに来るな」、と。
「……のの?」
「うん、……行こう」
私も二人がいる場所から目を逸らし、店から離れようと歩調を速める。これ以上ここにいたらもう一人にも気付かれてしまうかもしれない。そうなったら、恐らく厄介なことになるのは考えなくてもわかる。
どうして今更、あの二人が一緒にいたのだろう。学校ならまだしもプライベート。しかも、窓越しから見ている限りでは、仲良く食事しに来た風には見えなかった。お互い笑みを交わしてはいたけれど、何か張り詰めていたというか、昔の二人とは違った気がする。
……明日にでも、南に問い詰めてみよう。
何故、王子と一緒にいたのか、その理由を。
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