網のように張り巡らされた横断道路、行き交う雑踏に紛れて歩く。すれ違う人に視線を移すことなく、何の感情を抱くことなく。それは至極普通で、当たり前の風景。けれど、私はそれをどうしようもなく望んでいた。いっそ、この人波に飲まれてしまえばいいのに。そんな、自分でも救いようのない思いと共に。
「……本当、ありえないわ」
暫く放置していた携帯電話を取り出してサブディスプレイを見やると、大量の不在着信と新着メールを知らせるマークが表示されていた。誰から来てるかなんて確認する必要もない。少しのメルマガを除いて、ほぼ橘からのものだろう。ここまで多いと怒りを通り越して呆れる。家出した小学生か、私は。溜息を吐きつつ、携帯の電源を落としてまたバッグに放り込んだ。これで多分向こうも諦めるだろう。再び前を向いて歩き出す。
一人ひとりの足音や話し声、街頭に並んだ店のBGMが交じり合って表現しがたい雑音が生まれている。旋律のない音楽のようで、耳を傾けていると何も考えずに済む。
溶けてしまえ。トケテシマエ。
誰かを気にすることが出来なくなるくらいに、無駄な光すら当たらないように。
もう、何も考えたくない。
『すっきり爽やか恋の味――』
ふと、雑踏を掻き消すように響いた声。音が個を形成しない中で確かに存在を主張したそれに私は止まりかけた思考を再び動かされた。
足を止めて辺りを見渡して、発生源を探す。すると林立する高層ビルの一つに取り付けられた巨大な液晶画面を見つけた。その向こう側で柔らかな笑みを浮かべているのは、最近良く見かける顔だった。
――小鳥遊 彗、だっけ。
テレビをまめにチェックしているわけではないので、顔と名前くらいしかわからない。けれど最近よくニュースで見る顔だった。
彼は、まだ春先だというのに薄手のシャツ1枚というなんとも寒々しい格好をしていた。雲一つない青空をバックにして、右手には雫の滴ったペットボトルを携えている。色素の薄い髪と服の裾が風になびき、いかにも初夏を思わせるような映像だ。
新しい飲料水のCMだろうか。季節先取りすぎでしょ、今日なんてマフラーしてる人がいるほど冷え込んでるっていうのに。
……どうして、自ら目立とうと思うのだろうか、ああいう人たちは。暑くもないのに薄着して、あんな風に無理やり笑って。そこまでして得たいものは何なのだろう。名声? 人気? 好意?
――そんなの、何の価値もないのに。
また視線を雑踏に戻し、私は再び歩き始める。今日はどんな服買おうかとか、どこでお昼を食べようかとか、そんな暢気なことを考えながら。
すると、前をきちんと見ないで歩き始めたせいか、反対方向から歩いてきた人と肩がぶつかる。それは予想したよりも結構な衝撃で、最悪にもヒールの高い靴を履いていた私は、ぐらりとよろめいて尻餅をつくような形で転んでしまった。しかも「だっ……」という何とも女気の足りない声のおまけ付。アスファルトの冷え切った硬さが痛みを強くする。
「すみません、大丈夫ですか?」
ぶつかった人だろうか、すらりとした手があたしの前に伸びてきた。華奢だけど、しっかりした手。低い声と大きな手、どうやら男の人みたいだ。優しい人だな、普通の人なら絶対そのまま素通りするのに。東京っていうのは、他人に冷たい街だし(さっきまでそれを望んでいた私がいうことでもないけれど)。ご好意に甘えて、私はその手を取り立ち上がることにした。
「ありがとうございま……」
お礼を言おうとしたものの、相手の顔を見た瞬間言葉が止まった。
ニット帽を深く被ってごまかしているけど、さすがについさっき見たばかりの顔を見間違えるはずがない。色素の薄い髪、整った顔立ち、にじみ出る雰囲気。どれを取ってもスクリーンの中のものと同じだった。
「小鳥遊、彗?」
「あ、なんだ、ボクのこと知ってる?」
結構ごまかせてるつもりだったのに、なんて笑いながら私の手を取った男――小鳥遊 彗(タカナシ スイ)。
驚いた。まさか、今テレビで見た顔が目の前に立っていて、自分を助けてくれるなんて。……いや、この人とぶつかって倒れたんだから、「助けてくれた」っていうのはおかしいか。
とりあえず交通の邪魔になるし立とう、そして早々に立ち去ろう。この人が周囲に見つかったら面倒なことになりそうだ。
「……ありがとうございました」
血に足つけた瞬間、即座に小鳥遊の手を放す。出来る限り自然を装って。そして、早々に歩き出そうとした。
が、
「……にしては反応薄いね」
「は?」
いきなりの意味不明な発言に頓狂な声を上げて立ち止まる。しかし、当の市橋はそんな私をおかまいなしで、何もなかったかのように淡々とその状況を分析し始める。
「他の人に見つかるともっと反応がすごいからさ、悲鳴上げられたり、サイン頼まれたり。手なんて繋いだら尚更」
……この人、ナルシスト? 日本人が皆自分のことを好きだとか思っているのだろうか。だったらそれは不正解。少なくとも、あんたのことなんて何とも思ってない人間がここに1人いるから。
「残念ながら、あんたのファンじゃないんだよね」
「それにしてもさ、『芸能人』ってだけで大抵の人は喜ぶでしょう? 特別好きでなくても、見たことある人なら」
……そういうものなのだろうか。ああ、そういえば昔「芸能人に会った」って騒いでた子がいたけれど、実際会ったのは大して好きでもない芸能人だったのに「嬉しい」ってはしゃいでいたかもしれない。まあ、普通の人はそうかも、『珍しいもの見たさ』っていうやつ。
けど、私はそんなものには欠片も興味がないわけで。というかあんまりテレビ見ないしなあ。せいぜい朝のニュースとか、気になるドラマとかそれくらい。「どうでもいい」部類なのだ、テレビの中の世界は。
それに、
「……らいなの」
「え?」
「嫌いなの、あんた達みたいな芸能人がする作り笑い。だから別に嬉しくともなんともない」
そう、嫌い。作られた笑顔なんて。
作り笑いに、裏切られたから。
別に芸能人が悪いわけじゃない。むしろこんなの、八つ当たりに近い。けど、作り笑いを見ると、すごくむしゃくしゃする。すごく、人間を嫌いになる。信じられなくなる。
昔のことを、思い出す。
「……じゃあ」
もう二度と、会うこともないだろうけど。
唖然とした表情の彼に背を向けて、私は踵を返す。そして足早に彼の前から姿を消した。
「……面白いね」
何も知らないまま。
* * *
「じゃあ、部屋は2002号室、20階ですね。荷物は既に宅配便で届いていますので」
「ありがとうございます」
あれから結構な時間を買い物に費やし、大きなショップ袋を大量にぶら下げて新居へと帰ってきた。
……帰ってきたといっても、ここに帰ってくるのは今日が初めてだ。モデルルームの見学には何回か来ていたけれど。
荷物はあらかた宅配で送ってしまったので、引っ越しの手荷物はさほど多くなかった。おかげで服も大量に買い込めたし、これでしばらくは着回しに困らないかな。
新築だから綺麗だし、セキュリティは万全だし、文句なしのいい物件だ。親のお金で借りてるから金銭面を気にしなくていいし。
「……そういえば、」
早速エレベーターへ向かおうとしたとき、受付の女性がはた、と思い出したように呟く。
「お隣さんも今日引っ越してきたんですよ」
「お隣?」
「2001号室です、右隣ですね。つい1時間前に、その方も鍵を取りに来て。お隣同士仲良くしてくださいね」
「……はあ」
偶然だな、入居日一緒でしかも隣。新築、しかも結構な規模のマンションなのだからわざわざ隣にしなくてもいいだろうに。まあ近所関係は重要かな、隣と仲いいと色々と助かるし。人当たりのよさそうな人だといいけどな。
そんなことを考えながら、私はエレベーターで20階へと向かった。
* * *
20階に着くと、目の前は天井まで大きく吹き抜けていて、見上げるとガラス張りの天井からオレンジ色の光が差し込んできていた。そのせいで、辺りは暖房していないのに暖かい。各階の様子もお陰でよく見える。
――さて、私の部屋は、っと。
ご丁寧にも部屋の場所表示の書かれたプレートが随所にあるので、それを見ながら進んでいく。
なんだかホテルみたい、知らないフロアに行ったら迷いそう。
プレートに導かれるまま歩いていくと、遂に一つのドアの前にたどり着く。深緑のドア、そこに飾られた金色のプレートには「2002」と彫られている。表札には私の名前が書いてあるし、ここで間違いないようだ。
ここで、あたしの新生活が始まる。
まず何をしようか、とりあえず荷物片付けて……あ、噂のお隣さんに挨拶しなくちゃ。
2001は一番端で、隣はうちしかないわけだから、きっと優しく対応してくれる……と思う。かく言う私だって、左隣の部屋は空室みたいなのでお隣さんは2001号室の人しかいないのだ。
と、これからのことをあれこれと考えながら、ドアノブに鍵を差し込んだ。
その時、隣で違う金属音の音。ドアノブが回って、隣の――2001号室のドアが開いた。
丁度いい、折角だからここで挨拶しておこう。向こうも越してきたばかりで準備に忙しいだろうし、ここで済ませておけば後で色々楽になる。よし、最初が肝心、きっちり挨拶しなきゃ。
「どうも、はじめまし……」
「「……あ」」
お互い顔を見合わせて固まる。そして少なくとも私は、これからの生活に一抹の不安を感じざるをえなかった。
だって、隣のドアから出てきたのは――、
「……さっきはどうも」
不敵な笑みを浮かべた、小鳥遊彗。
私は、運命の神様を末代まで呪うと誓った。
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(08/03/21)