逃げ出したつもりだった、冷たさを宿した牢屋みたいな、あの家から。不自由なく全てを与えられ、その代わりに全てを求められることに嫌気が差したのだ。だから、与えられた全てを投げ出してでも、私はあの家を出た。引っ越し先も告げず、一人で。
ただただ、私は自由になりたかった。
……はず、なのに。
「綺月、メシまだ?」
何故、私は昼食を2人分作っているのだろう。
ここに引っ越して来てから、一週間が経つ。あれから私と小鳥遊はというと、何故かお互いの家を行き来するようになっていた。……元はと言えば、小鳥遊が私の家に上がり込んで「メシを作れ」と強要したのが全ての始まりだったんだけど。
そして今も、私は自分と小鳥遊、二人分のパスタを茹でている。
「スパゲティって、ソース何?」
「和風きのこ」
「……オレ、きのこ嫌いなんだけど」
「文句あるなら食べなきゃいいでしょ」
小鳥遊は自分のスケジュール帳を見ながら、私は調理鍋の中で泳ぐスパゲティを菜箸でかき混ぜながら、他愛ない会話を交わす。こんな光景も、ここ数日ですっかり私の日常に溶け込んでしまっていた。今は3月下旬、私も小鳥遊も学校がないので、こうして二人でいる時間は少なくない。小鳥遊が仕事の時以外の食事は殆ど私が作っているので、むしろ多いのかもしれない。……勿論、私も好きで二人分作っているわけじゃない。この前結んだあの約束あってこその行動だ。
『お互いここに住んでいることは誰にも口外しない』
セキュリティ万全、2LDK、新築。駅から遠いというデメリットこそあれ、お洒落な外観やその他施設の併設を考えたら、未成年者が到底払うことの出来ない家賃であることは想像がつくだろう。そんなマンションの一室に一人暮らししている子供なんて、必ず何かあるわけで。
むしろ何かないほうが可笑しいわけで。とにかく、私も小鳥遊も、ここに住んでいることが外に漏れたらまずい。
そこで、お互いの事情に深く突っ込まないこと、ここに居住していることを誰にも言わないことを条件に、いわば「同盟」を結んでいるのだ。……不本意ではあるけれども。
「てか、とっとと調理器具買ってよね」
今回の件も、小鳥遊が引っ越してきたばかりで調理道具を揃えていないから、という、たったそれだけの理由だ。こういう関係でなければ絶対に手助けはしない。
「芸能人様は忙しいんですー」
「自分で『様』付けですか」
「黙れ、一般庶民」
あんただってメディアがなければ一般人でしょうが。と言おうとしたところで、部屋にチャイムが鳴り渡った。これは玄関先に来客が来たのを知らせるチャイムだ。
ちなみに、このマンションの部屋には2種類のチャイムがある。というのも、セキュリティの関係で、フロントから繋がる内線で一度来客を確認して、部屋の住人の認証を得ないと建物内に入れない仕組みになっているからだ。フロントの来客を知らせるチャイムと、部屋の前の来客を知らせるチャイム。そして、今鳴ったのは後者の方だった。
「あれ、フロントの方のチャイム、鳴ったっけ?」
「え、わかんね。ここの住人じゃねぇの」
ああ、成程。まだここに越してきて1週間だし、様子を見に来ても別におかしくはない、か。……いや、可笑しい。昔のアパートじゃないんだから、同じマンションに誰が住んでようと特に気にならないはずだ。
「取りあえず出れば?」
促され、鍋の様子を確認してからキッチンを離れる。テーブルの上のスケジュールと睨めっこを続ける小鳥遊の前を通過して、インターフォンの受話器を取って耳に当てた。
「はい、玖世ですけど」
誰かの部屋と間違えているということもあるだろう。とりあえず丁寧に苗字を名乗ってみた。
が、これが思わぬ仇となった。
『お嬢様? 綺月お嬢様ですよね!?』
受話器越しに聞こえた声、使いなれた丁寧な口調、そしてその呼び方。インターフォンのディスプレイに玄関前の様子はまだ表示されていないけれど、思い当たる人物は一人だけだった。
「すみません、人違いかと」
『嘘吐かないでください! 今さっき「玖世」って名乗ったじゃないですか! 表札にもきちんと「玖世 綺月」って書いてありますよ!』
しまった、名乗るんじゃなかった。いや、名乗らなくても表札でバレていたかもしれないけど。
そうこうしている間にディスプレイにチャイムをならした人物が映った。整った身なり、心配そうな面持ち、それはやはり、私が予想した人物。
……橘だ。
「……何でいるの?」
あからさまに嫌悪をむき出しにした声で、受話器の向こうに問いかける。私がこのマンションに住んでいることを、橘は知らないはずだ。兄さん達にはそれとなく話をしたけれど、家にいる他の人間には一切口にしていないのだから。
『何でって、お嬢様が心配だったからに決まっているじゃありませんか! お嬢様が慣れない環境に体調を崩していないか、お嬢様が3食きちんとご飯を食べているか、お嬢さまが周囲の人間と仲良く出来ているか、もう心配で心配で』
「ああもう、うっさい! わかったわよ、今玄関開けるから黙んなさい!」
そんな回答、私は求めていない。私が訊きたいのは「どうやってこの場所を知って、そうやってあのセキュリティを潜り抜けてきたか」であり、「どういう心境でここに辿り着いたか」ではないのだ。それなのに、そんな風に不安要素をずらっと羅列されると虫唾が走る。第一、「家の外では名前で呼べ」って散々言ったのに、あの男ときたら……。
とりあえず、橘のマシンガントークを無理やり断ち切ってそう宣言すると、有無の確認も取らずにインターフォンを切り落とした。
「誰? 身内?」
何かリアクションするわけでもなく、淡白に質問してくる小鳥遊。その様子だと、私と橘の会話は聞こえていなかったようだ。手に持っているものがスケジュール帳から携帯ゲーム機に変わっていたので、それに夢中で聞く耳すら持たなかったのかもしれない。どちらにせよ、心の内でそっと胸を撫で下ろした。
「あー、うん、似たようなもん。ちょっと行ってくる」
曖昧に答え、急いでエプロンを脱ぐ。橘にこんな姿を見られたら、何を言われるかわかったものじゃない。というか、私が橘にそんな姿を見られたくない。ついでに髪を束ねていたシュシュも取って、エプロンと一緒に奥のソファーへ投げやった。
「おい、メシは?」
「あと少しでタイマー鳴るから、鍋からパスタ出してお湯切っといて」
「オレがやんの? めんど……」
「冷めてのびたスパゲッティでよければどうぞ」
小鳥遊が返事をしたのか確認しないままリビングを出た。おそらく小鳥遊は、舌打ちをするかぶつぶつ文句を言いつつ、それでもきちんとやってくれるだろう。ここ1週間でわかった、あいつは自分のためなら動く男だ(裏を返せば、他人のためには一切動かないわけだけど)。
今は小鳥遊より、お昼ご飯より、このドアの向こうにいる男をどうにかするのが先だ。まずは文句の一つでも言ってやろう。玄関まで小走りで向かうと、直ぐにドアチェーンを外して鍵を開けて、臨戦態勢でドアノブを回した。
「あのねえ、どうやっ「お嬢様ぁぁぁっ!」
私の文句を掻き消すように歓喜の声を上げると、橘はドアが開くや否や私に抱きついてきた。傍から見たら「抱きすくめた」ように見えるかもしれない。橘は男、私は女。身長も体格も橘の方が明らかに大きいのだ。現に今、私は橘の腕の中にすっぽり収まっている。しかし、これが意味するものは恋人同士のするそれではない。むしろ迷子の子供を見つけた親がするものに近い。……否、子が親に抱きついたような。
「この1週間、私がどれだけ心配したことか……! ご無事で何よりー!!」
「玄関先で抱きつくな、騒ぐな、泣くなぁっ!」
25才にもなる大の男が、自分より10才も年下の女を抱きしめて大粒の涙を流しているこの光景は、何も知らない人から見たら確実に気味が悪い。そして当の私からすれば、鬱陶しいことこの上ない。目の前の胸板を押し返して、橘を無理やり引き剥がした。
「何でここがわかったの?」
「十六夜様と朔夜様が教えてくださいました」
今、橘が上げた二人の名前、十六夜(イザヤ)と朔夜(サクヤ)。どちらも私の兄の名だ。あの二人、「特に橘には言わないで」ってあれほど注意したのに……。私を追いかけてくるって予想がついてたから、家を出るときわざと橘には教えなかったのだ。これでは何も意味がない。
「帰って、今すぐ帰って」
「嫌ですー、ここで帰ったらもうお嬢様に会わせてもらえない気がしますー」
「語尾伸ばして可愛い子ぶっても駄目なものは駄目! もうここには来ないで!」
「そんな事言われたら尚更帰れません! 私はお嬢様のお世話を」
「ああもう煩い煩いうるさーい!」
言い争っているうちに、ここが玄関先だということも忘れて段々声が大きくなる。橘を追い出すのに必死になって、周りの視線も、今置かれた状況もわからなくなっていた。
そう、私は忘れていたのだ。何故、ここに橘がいたらまずいのか。
今、この部屋にいるもう一人の存在を。
「……何やってんの、お前」
後ろから投げかけられた、ひどく冷静な声。背筋が凍るような感覚に、体内に渦巻いていた火照るような熱が一気に失われていった。
ゆっくり、後ろを振り向いてみる。部屋の中へ続く廊下の途中に呆然と立ち尽くす小鳥遊と目が合った。パスタにかけるはずだったきのこソースのパックを持って、訝しげな表情を浮かべている。
「……お嬢様、そちらは誰ですか?」
「綺月、そいつ誰だよ? てか、『お嬢様』って……お前のこと?」
前には橘、後ろには小鳥遊。普通に過ごしていれば、出会うことなどなかった2人。そして、その間に立たされた私。フリーズしそうな脳内に、思い浮かんだのはたった一言だけだった。
ややこしいことになった。
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(08/05/01) Thanks to みなみ絆。様!(500hitリク)